Episode2 WORLD IS UNREASONABLE - 世界という「理不尽」、その手触り -
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Episode2 WORLD IS UNREASONABLE - 世界という「理不尽」、その手触り -
「今までテニスやってきて一番嬉しかった瞬間でした」
松田龍樹は、初めて全国大会への出場が決まった時のことをそう振り返る。 小学校時代、地元の京都予選ですら一回戦、二回戦で敗退し、どれほど練習しても近畿大会という壁すら超えられなかった。整列すれば常に一番前だった小さな体は、テニスという無差別級の格闘技において、あまりに心細い武器だった。
しかし、中学入学とともに訪れた成長期が、停滞していた彼の時計を動かし始める。
一年で十センチ、二十センチと伸びていく身長に合わせるように、それまで磨き続けてきた技術が、ようやく威力を伴ってコートに突き刺さるようになった。
勝てなかった相手に手が届き、一つ、また一つと勝ち星を積み重ねていく。その手応えは、単なる勝利以上の意味を持っていた。それは、これまでの自分の努力や、家族と費やしてきた往復三時間の道のりが間違いではなかったという、静かな証明でもあった。
中学三年生の時、彼はついに念願の全国大会の土を踏む。
結果こそ一回戦敗退ではあったが、全国レベルの熱気に身を置き、同世代のトップ選手たちと対峙した経験は、彼の中にあった「もっと上へ」という純粋な向上心を、より鮮明で確かな決意へと育てていった。
そしてこの全国大会での実績が呼び水となり、京都の強豪・京都外大西高等学校からのテニス推薦が決まる。かつては京都の予選で敗退を繰り返していた少年が、一歩ずつ地力をつけ、名門校の門を叩く権利を手にした。

名門校への進学を控えた中学三年の夏、松田のテニス観を根底から変える出会いが訪れる。きっかけは、母親が見つけてきたテニスキャンプに参加したことだった。そこで出会ったのが、ジュニア時代の錦織圭を指導し、日本テニス界の歴史を塗り替えた名将・米沢徹である。
それまで大阪のクラブで、一球一球の理屈を突き詰める「理論のテニス」を叩き込まれてきた松田にとって、米沢の指導スタイルは衝撃的だった。
「その教え方がすごい僕にはヒットしたというか。理論的じゃなくて、もう適当って言ったらあれですけど(笑)。身振り手振りで教えるっていうか、もっと『ドカーン』と打ったほうがいいよみたいな。そっちの方がはまったんです、僕に。」
「ドカーン」と打つ。その一見、感覚的すぎるアドバイスは、理論の枠に囚われていた松田のテニスに、かつてない開放感をもたらした。160cmという体格のハンディを補うために、ミスを減らし「上手く」なろうとしていた彼に対し、米沢は「もっと本能的に、もっと強く」打ち抜くことを肯定したのである。
「僕が(錦織を)教えたから、あなたにも教えられる」かつての教え子である錦織の成功を背景にしたその言葉は、松田に強い自信を与えた。そして米沢は、松田に一つの言葉を授けた。
「世界を見てこい」
その言葉に導かれるように、松田は中学三年の冬、アメリカ・フロリダで行われたトレーニングキャンプへと旅立つ。そこで彼が目にしたのは、日本で磨いてきた自分のテニスが通用しない、剥き出しの理不尽とも言うべきものだった。
「衝撃的でしたね。同い年なのに、身長がもう180センチくらいあって。サーブが返せないんですよ。スピンサーブ打たれたら、もう返せなくて。そんなこと今までなかったので。」
テニスにおける「20cmの体格差」は、ボクシングにおける数階級の違いに等しい。180cmを超えるジュニアが放つスピンサーブは、松田の頭上遥か高くで跳ね上がり、物理的にラケットが届かない領域へと消えていく。
男子プロテニス界で、170cmという小柄な体格で世界ランク8位まで登り詰めたディエゴ・シュワルツマンは、自らのテニスについてこう綴っている。
「僕がコートに立つとき、相手はすでに物理的なアドバンテージを持っている。だから僕は、誰よりも速く走り、誰よりも正確に打ち、誰よりも頭を使わなければならない。僕のテニスには、ミスの余地は一切ない(Zero margin for error)んだ」
まさに「1センチの余裕もない」ほどに研ぎ澄まされたその世界、当時14歳の松田はフロリダの理不尽なパワーを前に身をもって体感していた。海外の選手は技術が未熟であっても、フィジカルを武器にサーブ一本で試合を支配してしまう。しかし、その圧倒的なパワーを前にした時、松田は恐怖ではなく、ある種の興奮を覚えた。
「いつも負けたら泣いてたのに、その時は涙も出なかった。すげーって、前向きでした。この選手に勝ちたいって思ったんです」
このフロリダでの体験が、松田龍樹の進むべき航路を決定づけた。
「ジュニアのグランドスラムに出たい。大人になってからトップに行くためには、ジュニアのうちにそこに到達しないといけない」
世界を知った少年の目には、もう、かつての自分が見ていた景色は映っていなかった。

中学卒業後、松田は予定通り京都外大西高校へと進学する。全国大会の常連校への入学は、順当なステップに思えた。しかし、すでにフロリダで「世界」を肌で感じてきた松田にとって、伝統的な日本の部活動という環境は、あまりに異なる手触りを持っていた。
「最初の1年間は部活に入ったんですけど、めちゃくちゃ怖かったです。もう、高校は部活だなーっていう感じで。初めて他人に、なんでこんな怒られ方するのっていうくらい怒られました」
そこには、技術の向上以上に重んじられる「組織としての規律」があった。
「一番印象的なのは、打つ時にもっと声を出せって言われて怒られたことです」。
一球一球の質に心血を注いできた松田にとって、声の大きさが評価に直結する文化は、競技の本質から外れているように感じられた。
「本音を言えば、やっぱり強い人はあんまり言わないんですよ。弱い先輩のほうが言うんです。『調子乗るなよ』みたいな。どんだけうざいねんって思いましたね」
高校一年生の時、チームはインターハイ出場を決める。松田も登録メンバーの五人には選ばれたが、全試合をベンチで過ごした。試合に出る機会は一度も訪れなかった。
しかし、その状況を松田は卑屈に捉えていたわけではない。むしろ、クラブチーム育ちの彼にとって、日本の「部活動」という濃密な集団が放つ熱気は、新たな学びの場でもあった。
「部活に入って良かったなっていうのはすごい思いますね。そういう、やっぱりテニスクラブで感じることのない戦い方。好きか嫌いか置いといて、そういう戦い方も絶対的にあるんで。それはすごい学ぶべき部分だなと思いましたし、今でもそれは感じます。高校に行って良かったなって」
その経験は、彼の中に「一つの戦い方の型」として刻まれた。一人のプレーヤーとして自分の可能性をどこまで広げられるかという問いに対して、今の環境で足を止めている時間は、彼にとってあまりに長すぎるものに感じられた。
中学三年の冬、フロリダで目撃した規格外の体格とパワー。それは松田に敗北感ではなく、「この世界で戦いたい」という強烈な憧れを植え付けた。
しかし、帰国後に待っていた名門校での部活動は、その高揚感とはあまりにかけ離れた「規定」に縛られていた。彼がテニス人生の当面のゴールとして見据えていたのは、ジュニアテニスの最高峰・グランドスラムの舞台だ。「ジュニアのうちに経験しておかないと、大人になってから世界のトップには到達できない」という確信が、彼を突き動かしていた。
その目的地へ辿り着くためには、世界各地を転戦し、ITFジュニアのポイントを積み上げなければならない。だが、全日制高校という枠組みが、物理的な壁となって立ちはだかった。
「学校の規定だと、海外遠征に行けるのは年間で60日くらい。でも、世界を目指して戦うには、それでは全然足りなかったんです。それが自分にとっては弊害でした」
技術の向上とは直接関係のない声出しで叱責され、規定を気にして国内に留まる日々。憧れた世界への距離を測るたびに、松田の中の焦燥感は膨らんでいった。
「やるなら、中途半端なのはちょっと嫌やなって」
名門校の看板を捨て、レールを外れる。それは周囲から見れば無謀な賭けに見えたかもしれない。しかし、松田の瞳には、フロリダの空の下で見た「あの世界」だけが、唯一無二の目的地として映っていた。

(Episode 3へ続く)
著者:山手 渉