Episode 1 ROMANCE DAWN - 船出 -
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Episode 1:ROMANCE DAWN - 船出 -
ネットをはさんだ二つの世界で音と沈黙が交互に訪れる。
残るのは、選び抜いた一球の確かさ。
卓球やバドミントンが瞬発の軌跡とリズムを問う競技なら、テニスは時間の厚みと選択の重さを問う競技だ。
ネットは境界であり、決断の舞台でもある。ラリーは短い判断の連続だが、その連続が一つの物語を紡ぐ。コートの広さや路面の違いが問いを変え、サーブは独立した局面として別の答えを求める。日々の反復が迷いを削ぎ、選手の決断に重みを与える。その重みが静かにコートに刻まれていく。
そんなテニスという競技に魅せられた、一人の青年がいた。
幼少期に両親に連れられて通ったコートで、彼は音とリズムを暮らしの一部として受け取った。最初は真似事だった動作が、繰り返すうちに身体の記憶へと変わる。小さな体はまだできあがっていなかった。しかし毎日の選択と練習が、少しずつ彼の力を作っていった。
プロテニスプレーヤー、松田龍樹。
小さな体で球を追い続けた少年の名。
「ベビーカーに乗ってる時からテニスコートにいましたね。」
1999年、京都に生まれた松田龍樹にとって、テニスは選ぶ以前の、呼吸に近い日常だった。テニス一家であった両親に連れられ、4、5歳の頃には、ネットの向こう側から飛んでくるボールを追いかけるのが当たり前になっていた。
周囲の友人がサッカーや野球に興じる中、松田が他のスポーツに目を向けることはなかった。週末、両親と一緒にテニスをすることは、彼にとって何より大切な「家族の時間」だったからだ。
しかし、その地続きの日常に、一つの区切りを打つ出来事が起きる。
きっかけは、小学校低学年の時に出場した、初めての大会だった。
結果は、一回戦敗退。
「めちゃくちゃ『うざい』と思ったんですよ」
松田は当時を振り返り、そんな生々しい言葉を選んだ。
それまで、テニスはただ楽しいだけのものだった。しかし、ひとたび勝負の世界に足を踏み入れれば、そこには残酷なまでの実力差が横たわっている。自分より遥かに強い選手に圧倒されるという経験をした。
それまでの「家族との楽しいテニス」が、一瞬にして「負けて泣くほど悔しい競技」へと変貌した瞬間だった。負ければ、決まって涙が溢れた。 勝負の世界に身を置く以上、そこに敗北があることは理解していても、込み上げる悔しさを抑えることはできなかった。
「こんな感情が芽生えるんだって。それが鬱陶しくて、でも負けたくなくて、そこから(テニスを)本格的にやるようになりました。」
この敗北こそが、彼の「航海」の出発点となった。
そこから彼の生活は一変する。週2回だったテニスは毎日になり、同時に松田家の「規律」もまた、その密度を増していった。平日は学校が終われば、塾、水泳、そろばん、習字。5日間のスケジュールは分刻みで埋まり、そこへさらにテニスの練習が加わった。
「月曜は塾、火曜は水泳……という風に毎日何かしら入っていて、友達と遊ぼうと言われても行けなかった。いや、めちゃくちゃ嫌でしたけど。でもなんかもう好き嫌い関係なく行くのが当たり前みたいな感じでした。」
松田自身が「自分は英才教育だった」と振り返る通り、幼少期の彼にはテニスが100になる時間などどこにもなかった。しかし、塾やそろばんと同じように当たり前にこなすべきものとして生活に溶け込んでいたテニスだけが、あの敗北以来、彼の中で特別な熱を帯び始めていた。
小学校五年生になる頃、松田を取り巻く環境はさらに加速する。京都の枠を超えて、より高いレベルを求めた父が、執念で探し出したのが大阪の星田テニスクラブだった。
「京都を越えて、お父さんが探してきてくれたんですよ。『ここがいいらしいぞ』みたいな。最後は大阪のテニスクラブに落ち着いたんですけど、そこからは毎日、車で送ってもらっていました」
地元の京都・八幡から大阪の交野にあるクラブまでは、片道45分から50分。渋滞を含めれば、移動だけで往復2時間を要する日も珍しくない道のりだった。平日は五日間、すべての習い事と並行しながら、松田は毎日この距離を移動した。学校が終わればすぐに車に乗り込み、二時間の集中した練習を受け、また夜道を帰る。
ここで特筆すべきは、テニスという競技が内包する「家族の献身」の重さである。
「親には本当に感謝しています。僕が2時間練習している間、親はただ車の中で待っていてくれるんです。往復の移動と待ち時間を合わせれば、親は毎日4時間近くを僕のために使ってくれていました」
この待ち時間の積み重ねこそが、ジュニア選手がプロを目指す際に避けては通れない、家族という最小チームが背負う標準的かつ過酷なサンクコストなのだ。
星田テニスクラブは、京都とは比べものにならないほどの熱量に満ちていた。
コートに立てば、周囲は自分より強い選手ばかり。強くなりたいという意志を持った者たちがひしめく環境に、当時の松田は圧倒されたという。
ここで彼は、自分のテニスを形作る重要な出会いを果たす。
「星田テニスクラブは、すごいコーチが僕に合ってましたね。なんかこう理論的というか、すごいここをこうして、って細かく教えてもらえるんですよ。コーチの教え方が自分に合っていたのが決め手です。」
整列すれば、身長は常に一番前だった。
小学校六年生の時点で130cmほどしかなかった彼は、テニスにおける体格差という絶対的な壁に直面する。テニスはネットを挟んだ無差別級の格闘技とも言われる競技だ。リーチが長ければ遠くのボールに届き、身長が高ければ高い打点から角度のあるサーブを打ち下ろせる。松田少年が放つボールは、フィジカルに勝る相手に容易く跳ね返された。
事実、ジュニア世代のテニス界は、成長期の早さが勝敗を直結させると松田は語る。
「小さい時は年齢が1個違うだけで全然違いますし、身長があるだけで有利なんです。だからあんまり勝った記憶がないんです。京都でも1回戦負け、2回戦負けみたいな感じだったので。とにかく負けまくったので、そこが小さい時にきつかったですね。何回もテニス辞めようかなって思いました。」
それでも彼を繋ぎ止めたのは、先述のコーチによる細やかな指導と、「好きなもので負けたくない」という純粋なプライドだった。
「小学校の頃は、負けたら全部泣いてましたね。めちゃくちゃ悔しかった。なんで負けるんだ、なんで負けんねんって、ずっと思ってました」
誰かに勝ったという喜びよりも、負けることへの強烈な拒絶感。それが、彼を再びコートへと向かわせる原動力だった。
だが、どれほど練習を重ねても、全国への壁は厚かった。地元の京都予選ですら、一回戦や二回戦で敗退する日々。負けるたびに泣き、自分の不甲斐なさに憤り、それでもまた三時間をかけて大阪のクラブへ向かう。
そんな彼に、最大の転機が訪れる。中学校への進学だ。
進学した京都文教中学校には、あいにくテニス部が存在しなかった。しかし、学校の規則で必ずどこかの部活に所属しなければならないという決まりがあった。
「絶対どれかに入れって言われて。じゃあ、テニスに一番繋がるものは何かと考えたら、走ることかなと。それで陸上部に入りました」
後ろ向きな強制を、彼は瞬時にテニスのためのトレーニングへと変換した。種目は長距離。テニスの練習が始まるまでの時間、彼は陸上部員としてひたすら地面を蹴り、心肺機能を追い込んだ。この日々が、後に全国の舞台をこじ開けるためのスタミナという武器を彼に与えることになる。
また、小学校6年生の時に130cmほどだった身長は、中学の3年間で着実に伸び、160cmに到達した。身長が伸びたことで、ボールには重みが加わった。これまでは届かなかった球に追いつき、力強く打ち返せる。そこで生まれるエースの感触こそが、松田にとって何よりの喜びだった。それまで体格差というどうしようもない壁に阻まれてきた彼の手元に、ようやく戦うための武器が揃いつつあった。
そして、負け続けてきた歳月を経て、ついにその壁をこじ開けた。
中学3年生、初めて掴んだ全国の舞台。
「今までテニスやってきて一番嬉しかった瞬間だった」
その言葉は、誰よりも長く暗闇の中を走り続けてきた彼にしか吐けない、真実の響きだった。
自分の意志で積み上げたスタミナと、ようやく手に入れた身体。ライバルたちと同じ地平に立った松田の視界は、一気に開けていく。その確かな手応えを胸に、彼はさらなる高みを目指して、まだ見ぬ「境界」の向こう側へと一歩を踏み出すことになる。
(Episode2へ続く)
著者:山手 渉
カメラマン:小川 和行