人生には、大切な選択をしなければならないときがある。
大いに悩み、苦しみ、それでも自分の責任で下す決断。そこに後悔が残ることのないように、その決断が正解だと胸を張れるように、人は生きる。
そんな人生の選択とともに持ち続けるべきもの、それが「Nogret」。
No regret = 後悔はしない、という意味だ。
ライフステージの中で数々の選択をし、今の地位を築いた戦士たち。
彼らが積み重ねてきた「Nogret」とは―――
Episode5 新たな挑戦、見えない限界。
大石一博、19歳。
13年間続けてきたサッカーを辞め、大学2年生でトライアスロンに転向。
実は在学する中部大学のトライアスロン部は、東海地区ではトップレベルの強豪だった。さらに部員数に至っては1学年あたり10〜15人、総勢50人を超える地区一番の大所帯。これまでサッカー競技生活でもトップレベルな環境で過ごしてきた大石にとっては、願ったりの新天地である。
「(トライアスロン部に)入る前は自信があったんですけど、全然ダメでした(笑)」
と思わず笑ってしまうほど、はじめは苦労したという。
サッカーでも大きな武器であったランが、本人の言葉をして「まだなんとかなった」と評するほど。水泳は4年間のブランクがあったし、バイクは競技レベルとツーリングレベルで走ることの違いに直面した。
部はレベル別に4チームに分けられており、もちろん大石は一番下のクラス。後ろには誰もいない、正真正銘に前しか向けない環境だった。
「毎回練習でマネージャーがタイムを取ってくれるんですよ。僕は一番下でしたけどレベル別にクラスが分かれているので、自分と同じくらいのタイムの人がいるんですよね。その人と自分の結果を比較して、勝てるようになったらまた次の(タイムが近い)人と比較して、また次、ということをひたすら繰り返していました。」
タイムというわかりやすい指標で、ライバルを上書きしていくこと。
常に挑戦しながらレベルアップしていく過程は楽しかった。13年間サッカーと過ごしてきた大石にとって、どこか懐かしさも感じていたのかもしれない。
「トライアスロンをはじめて、最初は全然ダメでしたし、挫折することもありました。でも辞めることもなく全力で頑張れたのは、『サッカーを辞めたんだから、こんくらい頑張れよ!』って気持ちがあったからなんです。」
13年間続けてきたサッカーを諦めたこと−
大石の中で、これを超える挫折などなかった。それにサッカーをしていた自分をずっと応援してきてくれた両親への想いもあった。二人の反対を押し切って選んだ道だからこそ、中途半端なことはできない。簡単には折れない、強いモチベーションを持ち、大石はトライアスロンへの道を突き進んだ。
トライアスロン選手として送った大学生活の中で、分岐点となった出来事がいくつかある。
その一つが、先輩との出会いだった。
部の監督のような存在だったその先輩に大石の姿勢や熱意が認められ、まだレベル差があったにも関わらずトレーニングを共にすることができた。技術や知識を叩き込んでもらっただけではなく、「部内で争ってもレベルは上がらない」というアドバイスが心に残ったという。
二つ目が、初めて見た全国大会(インカレ)だった。
部内の強い先輩達が全国レベルでは全く歯が立たずに、最下位に近い成績だったこと。予選で落ちて出場すら叶わなかった自分と照らし合わせ、先のアドバイスの意味を理解したのだという。そして大石は「全国大会に出るだけでなく、入賞する」ことを自らの大学生活の目標に設定した。
そして三つ目が、クラブチームへの加入。
全国大会での入賞を目標に設定した大石は、その実現のためトライアスロンスクール・チームゴーヤー名古屋の扉を叩いた。週3日の部活動と並行し、更なる成長環境を得た。大学2年時の9月のことである。
ここから大石の生活は変わった。
今まで8〜9時に起床していたが、毎日4〜5時起きに。そこから15kmほどの道を自転車で走り水泳のトレーニング場へ。6時から約2時間ほどトレーニングした後、学校までの15kmの道を自転車で走り、授業を受けるようになった。特にブランクの大きかった水泳には時間を割き、学校での空き時間も校内のプールでトレーニングを行なったり、泳力向上のため上半身をジムで鍛えていたという。
授業が終わると、部活動の日はそのまま参加し、クラブチームへ行く日は15km〜20kmほどの道をまた自転車で走り、トレーニングに費した。トレーニング場から家までも15km以上あったが、もちろん自転車で帰った。
大石のトライアスロンにかける強い気持ちはそのままトレーニングの質量に比例し、それは大学3年生のシーズンに結果として現れるようになった。
「前の年に予選で落ちた東海地区予選では優勝しました。一気にジャンプアップできたんですが、全国大会では170人くらいいる中で80番くらいだったと思います。ボコボコに負けました。」
まだ初心者だった頃に立てた、「全国大会で入賞する」という目標。当時は説得力もなく無謀にも思えるものだったが、一気に現実的なものとなってきた。ここから大石はクラブチームでの練習量を増やし、レベルアップの速度を増していく。
2000年の日本選手権優勝者である斎藤大輝さんがコーチだったことで、トップレベルのメンタル・技術を学ぶことができた。さらにチームには年代別の日本代表の選手達も在籍していたこともあり、レベルの高い練習環境で大石はトレーニングを続けることができた。それだけでなく、トライアスロン選手としての体づくりも教わり、サッカーをしていた頃には70kgあったフィジカル自慢の肉体もトライアスロン仕様へとアップデートしていった。
トライアスロン選手としての心・技・体が揃ってきた翌年のインカレで、大石はショートで9位、スプリントで8位という結果を収めた。目標としていた入賞(6位以内)は叶わず悔しい思いはあったが、トライアスロンに打ち込むようになってからわずか2年での成績と考えると驚異的である。さらに同年は日本選手権に出場できたことや、デュアスロン(バイクとランの複合競技)の全国大会で2位に輝いたことも、大学生活における大きな成果であった。
サッカーを辞めてからの大学生活で新しい何かに1から全力で取り組むと決め、トライアスロンを選んだ大石。その一区切りを終えて残ったのは、ある欲求だった。
「大学生活全力でトライアスロンをやってきて、チームのコーチだけじゃなく、(サッカーを辞めるのに反対していた)両親が応援してくれるようになって、トライアスロンを続けたい、もう少し頑張りたいという気持ちになりました。サッカーで感じたような“限界”はなかったんです。」
あのときのような限界は感じない。
サッカーをしていた13年間での挫折は、大石を支える強さへと変わっていた。
弱点だったスイムをまだ伸ばせる余地があったし、それができればランとバイクで捲っていく自身のスタイルをさらにブラッシュアップできる確信もあった。
こうして大石は社会人として、トライアスロンと仕事を両立していく道を選んだ。
大学で実施された企業説明会に参加しながら、仕事と競技を両立できる環境を求めて数々の会社に直談判して回っていたという。そこで出会ったのが現在の所属先であるブロンコビリー、東海地方を中心にステーキレストランをチェーン展開している会社だった。
「大好きだったんです。小さい頃から、サッカーで勝った時のお祝いとか特別な出来事の時はブロンコビリーに行っていました。そういう良い思い出がありました。」
サッカーをしていた頃から大好きだった会社は、トライアスロン選手としての大石をサポートしてくれる会社となった。現在は社員として店舗に勤務しており、店長と相談しながら競技と両立したスケジュールを組んでいるという。
社会人として迎えた初年度は、思うような結果を出すことができなかった。それでもサポートしてくれる会社のため、サッカーをしていた時と変わらず応援してくれるようになった両親のため、今シーズンに賭ける意気込みは強い。
初戦は、トライアスロンの中ではロングディスタンスにあたるアイアンマンにエントリーする。この種目はスイム(水泳)3.8km、バイク(自転車)180.2km、ラン(マラソン)42.2kmの順に行うという、非常に過酷なもの。だが、ここに大石の新しい目標があった。
「アイアンマンは世界に繋がる大会なんです。将来的にはアイアンマンのプロカテゴリで戦いたいですし、(世界選手権である)ハワイで日本人初の入賞をすることが目標なんです。」
新しい挑戦、見えない限界、徐々に上がっていく目標。
25歳、自分の成長を実感する日々に、とうとう「世界」という言葉が出てきた。
「自分の限界を感じた時が引退する時だと思うんですけど、その時には両親や友人やコーチはもちろんですが、トライアスロン界からも『お疲れ様』と言ってもらえるようなビッグな選手になって引退したいと思います。」
限界が見えるまでは、全力でやり抜く。
もしその先に限界が見えたら、それは新しい挑戦のサイン。
そこに挑戦し続ける限り、後悔することはない。
それが、大石一博にとっての “Nogret”。
(おわり)
著者:山手 渉