人生には、大切な選択をしなければならないときがある。
大いに悩み、苦しみ、それでも自分の責任で下す決断。そこに後悔が残ることのないように、その決断が正解だと胸を張れるように、人は生きる。
そんな人生の選択とともに持ち続けるべきもの、それが「Nogret」。
No regret = 後悔はしない、という意味だ。
ライフステージの中で数々の選択をし、今の地位を築いた戦士たち。
彼らが積み重ねてきた「Nogret」とは―――
Episode2 トップ選手への階段
「ハンドボールが楽しくない」
信太がその”変化”を初めて感じたのは、中学3年生のことだった。
楽しむことを第一に取り組んできたハンドボールでも、県内2位・関東大会2位・全国大会ベスト8と結果を出すことはできた。
ただ、その上がいた。
JOCのメンバーに選ばれ、そこで出会った他の強豪校の選手たちは、圧倒的な練習量で勝つために必要な動き方・考え方を身につけていた。本人の言葉をして「はじめてちゃんとハンドボールを教わった」時間だった。
教わったと書けば聞こえはいいが、実際はそうではない。当時の信太は、本当の意味でのハンドボールの動き方や考え方が出来なかった。楽しくプレイし、その先に勝利があるというプレイだった彼にとって、それははじめての体験だった。
それが冒頭の「楽しくない」である。
そんな気持ちを胸に抱えながらも、選抜メンバーである以上はやらねばならない。そこで過ごした日々の中で、その感情は「ムカつく」へと変わっていった。
出来ないことに、腹が立つ。信太は自分に対して怒りを抱くようになった。
普通は、出来ないことを知ってそれを乗り越えると嬉しいと感じる人のほうが多いと思うが、彼は違った。出来ない自分が嫌で、ムキになることがエネルギーになるという珍しいタイプだった。
そうして過ごしたJOCメンバーとしての日々で、信太にある想いが芽生えた。
今できないことができるようになったら、自分はどうなるんだろう?
もっといい選手になれるのかな?
ハンドボールの奥深さに触れ、自分のできないことを思い知り、そしてそれを乗り越えるための努力をした。嬉しくはないけど、少しずつ感じていくプレーヤーとしての手応え。
信太は、その先にある新しい扉の前に立っていた。JOCで出会った仲間たちは、高校でも強豪校へ進学しさらに自分を高めていく。気心の知れた中学の仲間たちと地元の高校へ進学して楽しくハンドボールを続けるか、これまでのように楽しむだけでは決して開けることの出来ない扉を開けるか。
そして彼は決断した。
茨城県立藤代紫水高等学校――
信太が決断したのは、全国でも屈指のハンドボール強豪校での挑戦。親元を離れて近くに下宿しながら通う日々に自らの意志で飛び込んだ。ハンドボールとの向き合い方は、中学時代と180°変わった。
練習は平日5時間、休日6時間。ウェイトトレーニングは週2がマスト。休みなんて年に5回あるかないかくらい。食事は間食も入れて1日6回食べた。
これはプロ選手のルーティンではなく、高校生の生活である。文字にしただけでも凄まじい内容だ。
「マジで行かなきゃ良かった」
という言葉が出たほど、信太にとっては壮絶な日々だった。毎日の練習が辛すぎて、ハンドボールを辞めたいと思ったことも正直あったという。ただ同時に、自分がうまくなっていく実感もあった。
だから信太は、あがいた。とことん、やり抜いた。
そして、変わったのはそれだけではなかった。
「めちゃくちゃキツかったから、勝たないと意味がないと思うようになりました。そして勝つために自分がいま何をするべきなのかを考えるようにもなったんです。」
練習に耐えうる肉体を鍛え上げ、練習で様々な技術を会得し、そんな日々で心持ちも強くなった。ハンドボール選手としての心技体が揃ってきた高校時代、信太は一気にステップアップしていく。
高校1年時には、チームから唯一U-16の日本代表メンバーに選出。
さらに翌年には高校生ながらU-19・U-21の日本代表にも選出された。
また、チームとしては2006年・2007年と2年連続全国高等学校ハンドボール選抜大会で優勝を成し遂げた。
過酷だった高校時代の日々は、チームで全国を制覇し、個人で日の丸を背負って活躍するという結果として表れた。
辛くて投げ出したくなることもあった。
でも、それ以上に得たものが多かった。
だから、この決断は正しかった。
こうしてまたひとつ人生の選択から道を切り拓いた信太は、ハンドボール選手として新しいステージへ突入してゆく。高校から大学への進学は悩むことはなかった。筑波大学、早稲田大学といった強豪校がある中、進路として選択したのは名門日本体育大学だった。
高校時代の監督がジュニアやユースにもかかわっていた縁もあり、信太は早いうちから上の世代のメンバーと時間を共にすることがあった。
現在もジークスター東京のチームメイトである東長濱秀希といった当時の若手トッププレーヤーたちが日本体育大学に所属していたこともあり、高いレベルでプレイできる環境に好印象を持っていたという。
入学してからの信太の活躍は、圧巻の一言に尽きる。
入学初年度の2008年に行われた第11回男子ジュニアアジア選手権では、U-21日本代表メンバーに選出。
翌2009年には関東学生ハンドボール・春季リーグで優秀新人賞を受賞した。
さらに続く秋季リーグでは85得点をあげて得点王のタイトルを獲得し、同時に優秀選手賞も受賞した。
また、同年に行われたインカレ(全日本学生ハンドボール選手権大会)でも優秀選手賞を受賞。
ここまでの実績・記録でも、まだ大学生活の半分なのだから恐ろしい。
大学生活の後半に入り、2010年春季リーグでは2季連続で優秀選手賞を受賞。
さらに6月に第20回世界学生ハンドボール選手権でも、引き続きU-24の日本代表メンバーに選出された。そして同年のジャパンカップでは、とうとうフル代表にも初選出された。
この時大学生以下でメンバーに入ったのは、信太と同じく日本体育大学の2学年下だった元木博紀(現大崎電気)だけである。
そして最終学年の2011年は、春季リーグで4季連続となる優秀選手賞を受賞。さらに秋季リーグではチームの3季ぶりの優勝に貢献し、最優秀選手賞を受賞した。
そして集大成となった最後のインカレでは、早稲田大学を破ってチームの2年ぶり21回目の優勝を果たした。
楽しむこの先に勝ちがある、という気持ちでハンドボールを続けることを選んだ中学時代。
出来ないことが腹立たしく、その気持ちを向上心に変えてハンドボールととことん向き合った高校時代。
さらに高いレベルに身をおいたことで、個人としてもチームとしても大きな成果を残した大学時代。
こうして信太弘樹は、ハンドボールプレイヤーとしての地位を確固たるものとしていった。
(Episode3 ハンドボールで、生きていく。 へ続く)
著者:山手 渉
カメラマン:高須 力