Episode1 ハンドボールとの出会い


 

人生には、大切な選択をしなければならないときがある。

大いに悩み、苦しみ、それでも自分の責任で下す決断。そこに後悔が残ることのないように、その決断が正解だと胸を張れるように、人は生きる。

 

そんな人生の選択とともに持ち続けるべきもの、それが「Nogret」。

No regret = 後悔はしない、という意味だ。

 

ライフステージの中で数々の選択をし、今の地位を築いた戦士たち。

彼らが積み重ねてきた「Nogret」とは―――

 

 

 

Episode1 ハンドボールとの出会い

 

そんな悩まなかったけどなあ。

 

これまでの人生で悩んだことがあったら教えて欲しいとお願いしたら、屈託のない無い笑顔でこんな返答をしてくれたのが、信太弘樹だった。

 

今年のハンドボール界を席巻する、日本ハンドボールリーグのチームジークスター東京の看板選手であり、かつては日本代表でもキャプテンを務めたスター選手だ。
地元茨城県の麻生中、藤代紫水高を経て日本体育大へ進学。その過程で常に年代別の日本代表選手として活躍してきた。
大学卒業後は、日本ハンドボールリーグの名門大崎電気へ入社。
8年にわたってエースとして君臨し、チームに数々のタイトルをもたらした。そして2020年よりジークスター東京へ電撃加入し、今シーズンは台風の目となったチームの中心選手として出色の活躍を続けている。

 

こうした華やかな経歴を持つハンドボーラーを、「エリート」と評する人もいる。だが、その地位に至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

 

悩んだことはなかったかもしれないが、大きな決断をしたことはあったのでは?
と聞くと、信太はうなずきながら話してくれた。

 

 

 

はじめの決断は、「ハンドボールを続けること」だった。

 

1989年624日、茨城県行方市に信太は生まれた。
7歳上の兄と4歳上の兄を持つ三兄弟の末っ子で、幼い頃からサツマイモの専業農家であった両親の畑を走り回っていた。
そして、外で遊ぶことがほとんどだった信太少年は、既に競技者だった4歳上の兄の影響で8歳からハンドボールをはじめた。最初はほぼ無理やり連れて行かれたようだが、初日からとても楽しかったという。
負けたくない、兄への気持ちと憧れとともに、ハンドボール選手としての信太は産声を上げたのだった。

 

そんな小学校時代、実は5年生から野球もはじめていた。
それぞれに仲の良い友人がおり、そのおかげで両方の競技をとても楽しく続けていたそうだ。茨城県といえば、常総学院や水戸商、土浦日大など高校野球の強豪校もひしめき合っており、非常に野球の人気な土地でもある。

 

こうして「二足のわらじ」を履いていた信太だったが、中学校に進学するタイミングでどちらを本格的に部活動としてやるのかを決めることとなった。
それが最初の決断だった。

 

「やっぱ悩んでましたね。どっちも好きだったので。野球もそこそこできましたけど、でもやっぱりハンドボールをやっているときのほうが褒められることが多かったんです。自分の中でも、野球よりハンドボールのほうが『できる』という手応えを感じていました。」

 

信太は野球とハンドボールのどちらも好きだったが、自分の中でセンスを感じていたのはハンドボールだったという。加えて、4歳上の兄もハンドボールをプレイしていたことや、両親ともにハンドボールが好きだったことも影響があった。
自身の手応え、そして家族のサポート、それを両立できる競技がハンドボールだったのだ。

 

野球をやればよかったと思わなかったか?と少し意地悪な質問をしてみた。

 

「あるとすれば大人になってからですかね。プロになって、時々野球をするようになって、周りから『お前野球やってればよかったんじゃない?』なんて言われたことがありました。野球ってやっぱりお金もすごいじゃないですか。仕事として考えたら、ちょっとやっておけばと思っちゃいましたよ()

 

なるほど、確かにそれは一理ある意見である。
狭き門ではあるものの、ビジネスという見方では野球とハンドボールは比べる規模ではない。当然得られるサラリーも大きく、職業としてプロアスリートになった後だからこそ、その違いを感じたのだろう。
ただそれを冗談めかして言うところに、自分の決断に対する強い自信を垣間見ることができるのも事実だ。

 

 

未来にそんなことを冗談で言う信太であったが、中学生になりハンドボールを選んだときには将来のイメージは全く持っていなかったという。ただ楽しく、ただ純粋にプレイしたい。それが動機だった。

 

 

奇しくもこの決断が、ハンドボール選手としての現在を生んだ。
小学6年生で既に170cmを超えていたほどの恵まれた体格だった信太は、ここから一気に競技へのめり込み、そしてハンドボール選手としての未来を開拓してゆくこととなる。

 

地元の行方市立麻生中学校へ進学し、ハンドボール部に入部。
競技の楽しさに魅了されていた信太は、勝ち負け以上に楽しむことを大切にしていた。もちろんそれは遊ぶという意味ではない。
兄の試合のビデオを見ては、上手いシュートがあれば真似したり、凄いプレイがあればチームメイトと真似したりしていたという。それに部活動といっても、まだ中学生。練習だけでなく、友達と遊ぶことも多かった。野球やサッカー、缶蹴りなど、やっぱりスポーツではあったが。

 

そんな中学時代の信太のハンドボール生活は、県大会で2位、関東大会でも2位、そして全国大会にも出場。楽しむことを何より大切にしながらしっかり結果も出してきた。
極めつけは、2004年の第13回ジュニアオリンピックカップで最高殊勲賞である「オリンピック有望選手」に選出。ここから信太のハンドボール選手としてのキャリアは少しずつ加速する。

 

「初めてちゃんと細かいところまでハンドボールを教わった」
JOC県選抜メンバーに選ばれた頃のことを、信太は語る。
 
楽しむことからはじまったハンドボールとの日々に芽生えた、「うまくなりたい」という感情。オフェンスだけではなく、ディフェンスもひっくるめて向き合うハンドボールは、決して楽しいことだけではなかった。
むしろはじめて「楽しくない」という感情すら抱いたという。
 

ここから先は、真剣勝負だ。

もっとハンドボールがうまくなりたい、強くなりたい。

 

新しいステージへ足を踏み入れた信太は、また大きな決断を下さなければならなかった。

 

 

Episode2:トップ選手への階段 へ続く)

 

 

 著者:山手 渉

カメラマン:高須 力